鬱気者沙門、魂の居場所は

鬱の事とか鬱の日常とか

2025年07月頃の記録(自死計画)

悪くなっていく環境

 

回復期に入ったと思われたうつ病であるが、なかなか良くならない。

 

むしろ少しづず悪くなっている。

 

考えてみれば当たり前で、本来なら休んで(休職して)石清水のようにピチョンピチョンと流れ出る元気を溜めなくてはいけないところを、薬でやる気を補い働いているので、多少回復しても気は日々削り取られている状態なのだから。

 

そんな訳でどうしても仕事は休みがちになり、担当業務も管理系から作業系にいつのまにやらシフトしていたりする。

(まぁ現場で使って貰っているだけありがたいが)

 

これは当然将来的な収入面での不安となる。

 

また家庭環境においても、一時的に理解を得られたと思っていた家人から

「何かというと病気(うつ)のせいにして自分の事しか考えていないしやっていない。そのストレスでこっちが病気になる。」

とキレられた。

 

私自身の言動を省みれば正にその通りなのだが、こればかりはキレられてもどうしようもない。

申し訳ない気持ちはあるのだが、こちらはもうずーっと「生命維持モード」なので正直自分から気付いて周りの為に何かしようという気付きも気力も体力も無い。

 

とは言え、うつ者の家族も相当辛いであろう。

何せ薬を飲んでいれば、私の事は多少のろま(茨城弁で言うところの「デレスケ」)ながらも普通に見えるし。

それで「鬱だから」と家の事は何もしないし何も考えていない、じゃぁねぇ。

それはキレるのもしようがない、と普通の人なら思うだろう。

 

 

自死計画

 

キレられついでに家計について財布分離制からお小遣い制への変更も言い渡された。

 

これからは稼ぎを全て上納せねばならぬ。

 

家人にしてみれば「うつ者に家計管理をまかせておけない」という事らしい。

 

 

 

 

 

死のう。

 

 

 

ここまで嫌われているなら生きている必要もない。

 

 

 

生命保険で多少なりとも保険金がでるし、ストレッサーである私が居なくなれば家人も病気になる事も無いだろうし、一石二鳥である。

 

「死にたい」「居なくなりたい」という気持ちではなく、衝動的な死の選択でもなく、死ぬことを確定した瞬間だった。

 

幸い(?)翌日は吉日であり、死ぬには良い日そうだ。

 

頸動脈を切るつもりなので、ペティナイフを研ぎ、風呂で死んだら今後家族が風呂場を使えないだろうから普段使わない客間で実行する事にし、あまり汚れないように床に引くブルーシートも用意し、生命保険の内容を確認し、銀行口座のメモを残し、HDDのデータとブラウザの履歴を完全に削除し、スマホの中身も整理した。

家人と子供は所要で外出するので、家族の用事の邪魔をせずこちらの邪魔をさせない時間に実行することにした。

 

30年溜め込んだデータを完全に削除するのには流石に躊躇し自殺に思いを寄せると体にストレスを感じるが、「どうせ死ぬし」と考えると、気持ちが晴れてきたのが印象に残った。

 

 

明けて翌日。

 

 

目覚めると驚いたことに死ぬ気が失せていた。

 

死ぬ覚悟と準備をし「どうせ死ぬし」と執着を捨てられた事の副作用的なものだろうか。

 

家人の顔を見ても死ぬ気力が50%くらいしか湧いてこない。

 

ううむ、ここで最期の武器である人生の無駄弾を撃つべきではないか…(筋肉少女帯「221B戦記」より)

 

 

と言う訳で、自死はとりあえず回避と相成った。

 

 

それだけはなく、執着も無くなってきたので稼ぎの上納も気にならなくなった。

 

身体は相変わらず重いが、心は若干軽くなったような気がする。

 

幸か不幸か、まだ少し生きられそうだ。